「ワタシ」的日常

一人称の主語「私」によって語りだされる日記。
ハヤナギの公的and/or私的生活の中の出来事とそれについての感想と考察から成る。
単なる愚痴のたれ流しという説もある。(目標:毎日更新)


2014年12月31日(水)の日記


私を解放してくれた至言(1)
たまには放言も悪くないだろう。

3回ほど、私を解放してくれた至言を引用したい。

今世紀初頭、私のもやもやをきれいに吹き払ってくれた内田樹さんの一文。
http://www.tatsuru.com/columns/uhohoi1.html

その後、(内田樹『ためらいの倫理学』、冬弓舎、2001年、173ff.)に収録。2003年に角川文庫版。

『記憶/物語』(岡真理、岩波書店、2000年)
 
ポストモダンの思想家たち固有の「明晰な息苦しさ」というものがある。
クリアカットな言葉で、明晰な理説を、ポリティカリーにコレクトな仕方できちんと叙述しているのだが、その「コレクト」な文体はいつも私を息苦しくさせる。
岡真理のこの本にもそれを感じた。
この「息苦しさ」はどこから由来するのか、それについて考えてみたい。
岡がこの短い論考で扱っているのは、ほとんど古典的な哲学的=文学的主題である。
〈出来事〉は言語化されたときに、その本質的な〈他者性〉を失って、〈既知〉の、無害で、なじみ深く、馴致された〈経験〉に縮減される。しかし、私 たちは言語によってしか〈出来事〉を伝えることができない。では、どのようにして〈出来事〉の〈他者性〉を毀損することなしに、それを言説のうちにもたら しきたすことができるのか。
この問いは、哲学的な問いとしては、エマニュエル・レヴィナスによって、文学的な問いとしてはモーリス・ブランショによって、ほとんどいま私が書い たとおりの言葉遣いで1950年代に定式化された。それ以後の哲学と文学についての理論的考究はほとんどこの問いをめぐってきたといって過言ではない。
それから50年。私は岡がブランショとほとんど同じ問いを繰り返しているのを聞いて、短いためいきをついた。
相変わらず、私たちはここにいるのか。はじめに問いが発されたところから一歩も進めずに。
いや、前にすすむどころか、むしろ後退しているのではないのだろうか。
問いかけは同じだけれど、問い方には違いがあるからだ。
どう違うのか。
少し長いけれど引用してみよう。
 
〈出来事〉の記憶が−〈出来事〉の記憶に媒介されて〈出来事〉それ自身が−他者に分有されねばならないとしたら、それは何をしても、語られねばなら ない。〈出来事〉の外部に生きる他者たちへ至る道筋、回路を私たちはつくり出さなくてはならない。それは、今ある世界とは別の世界を私たちが創り、生きる ためだ。
だが、ここまでわたしが論じてきたのは、〈出来事〉の表象不可能性という問題、すなわち〈出来事〉は言語化できないということであったはずだ。〈出 来事〉が言葉で再現されるなら、必ずや、再現された「現実」の外部にこぼれ落ちる〈出来事〉の余剰があること、〈出来事〉とはつねにそのような、ある過剰 さをはらみもっており、その過剰さこそが〈出来事〉を〈出来事〉たらしめている、ということではなかっただろうか。そして〈出来事〉の暴力を現在形で生き る者たちは、そうであるがゆえに、それについて語る言葉を持ち得なかったのではなかっただろうか。
しかし、それでもなお−あるいはそうであるからこそ−語り得ない〈出来事〉は、語られねばならない。〈出来事〉の記憶が他者と分有されるために。そ して、そのためには、〈出来事〉の記憶は、他者によって語られねばならない。自らは語り得ない、その者たちに代わって。(・・・)他者が−〈出来事〉の外 部にあった第三者が−証言しなくてはならないのではないか。だか、それは語り得ない者たちに代わって、その〈出来事〉をいかようにも表象してよい、という ことでは断じて、ない。言葉では語り得ないはずのその〈出来事〉について語ろうとする私たちが「語り得る者」として振る舞うとしたら、その瞬間に私たちは 〈出来事〉を裏切ることになるだろう。表象不可能な〈出来事〉を表象すること、語り得ない〈出来事〉について、語ること、それは何よりもまず、〈出来事〉 のその語り得なさこそを証すものでなくてはならないのではないか。
では、そのような語りとは、いかにしたら可能だろうか。(pp.75-77)
 
岡がここで何が言いたいのかということはとりあえず措いて、読んだ印象だけを感じ取ってほしい。
ある種の「息苦しさ」を感じなかっただろうか。
私は感じた。
感じて当然だと思う。
ここに引用したのはこの本のいわば問題意識が集約的に語られて部分なのだが、その文章がほとんど全編「当為の文法」に律されているからである。
このわずか半頁、センテンスの数にして14の文章の末尾には「・・・しなければならない」が三回、「・・・だったはずだ」が二回、「・・・のために」が二回用いられている。つまりこの文章の半分は英語で言えば「must」の構文で占められているのである。
ほかに、「・・・ではなかっただろうか」と「・・・なのではないか」という修辞的な否定疑問(これはほんらいは論戦で相手を追いつめるときに頻用される「攻め」の構文である)がそれぞれ二回。
動詞でいちばん繰り返し使われているのは「できる/できない」「し得る/し得ない」という「can」 に当たる言葉で、これが九回。最後の文の「可能だろうか」も含めると十回。
岡は文学の専門家なのだから、イデオロギーが「言語運用の表層」に露出するということについては熟知してるはずだ。
ではその岡に訊ねたいのだが、「must」と「can」だけで編み上げられたディスクール、つまり「当為」と「能力」にのみ焦点化したディスクールはふつうどういう「政治的な文脈」で用いられるのだろうか。
それは「学校教育」の場で教師が生徒を訓育するときに用いる discipline の語法だ。軍隊の語法、政治党派の語法だと言ってもいい。
そして、言うまでもなく「学校」と「軍隊」と「政治党派」とは、「他者」の声がもっとも聴き取りにくい場、〈出来事〉がもっとも暴力的に隠蔽される場、まさに私たちがそこから逃れ出ようとしている当の場なのである。
結論部分で岡はジャン・ジュネを引いて、「他者の呼びかけの声にその無能さと受動性において応答する」ことによって「〈出来事〉の記憶を分有」しえるのではないかという希望を語っている。
私はこの知見には原則的に同意する。
しかし、もし岡がほんとうに最終的に私たちが使える道具は「呼びかけ」と「応答」という言語的なコミュニケーションであり、「言葉の力」に、「物語 る力」に最後の賭け金を置いてもいいと信じているのだとしたら、岡自身、自分がどういう言葉遣いによってそのような思想を語っているかについてもう少し敏 感にならなくてはならないと私は思う。
エマニュエル・レヴィナスの『全体性と無限』は、そこでもちいられている当の語法が、そこで論じようとしている当の主題を裏切り続けるという非常にストレスフルなテクストとして知られている。
いかなる言語によっても表象しえないはずの「他者」と「出来事」を語ろうとする企ては、それが成功すれば、「他者」はもう「他者」ではなくなり、「出来事」は「出来事」ではなくなるという背理を刻印されている。
「他者性」ってのはさ、これこれこういうものなのさ、とのんきに語る人々も、そのみぶりそのものが他者性を根絶するものだということを「理屈」としてはすぐにわかるだろう。
では、どうやって語るのか。
これは岡の問いと同じ問いだ。
こたえはもうずっと以前に、レヴィナスによって出されている。
それは「あなた」に届くように語る、ということだ。
それは「当為」と「能力」の語法とは想像しうるかぎり、もっとも遠くにあるような語法である。
ポストモダンの「コレクト」な思想家たちに感じる「息苦しさ」は彼らの思考が「当為」と「能力」の文法に律されており、「あなたに届く言葉」とはどういう言葉なのか、という思想的難題を真剣には考えてきていないということに由来すると私は思う。
ポストモダニズムはほとんど「語り口」のことだけを中心的な論件にしてきたはずなのに、なぜ自分たちの「語り口」の問題だけは構造的に見落とし続けるのだろう。
もちろん私が今言った「あなたに届くように語る」というのも一種の修辞、ひとつの物語にすぎない。けれども私はそれがフィクションだということを知っている。
私たちは嘘をつくことによってしか漸近線的に「真実」に近付くことができない。だから、私はこまめに嘘をつき続ける。だって、嘘をつかないと語れないことが、嘘をつかないと届かない言葉がやまのようにあるからだ。
私には自分が「嘘つき野郎」だという「病識」がある。
岡にはその「病識」があるだろうか。あるといいのだが。
No.87

まるは  2014/12/30/23:16:04   No.88
内田さんの『ため倫』からさらに引用しておこう。ページのメモがどこかに行ってしまい、現物が今、手許にないので、そこら辺はお許しを。

高橋[哲也]の主張は依然として「正しい」。しかしやはり「正しすぎる」ように思われる。(中略)
 原理的な正しさを求める志向は、いずれおのれが存在すること自体が分泌する「悪」に遭遇するほかない。そのときには「私が存在することが悪だというなら、私は滅びよう」という「結論」を高橋は粛然と受け容れる覚悟なのだと思う。
 私の身体に「鳥肌」が立ったのは、おそらくそのような「自裁の結論」に対しての生物的な怯えゆえである。(中略)
 加藤[典洋]はこの論争を通じて、「正義」は原理の問題でなく、現場の問題であるという考え方をあきらかにしていった。ことばを換えて言えば、この世界にいささかでも「善きもの」を積み増しする可能性があるとしたら、それは自分自身のうちの無垢と純良に信頼を寄せることによってではなく、自分自身のうちの狡知と邪悪に対する畏怖の念を維持することによってである。
 「悪から善をつくるべきであり、それ以外に方法はない」ということばに加藤がたくしていたのはそういうことではないかと私は解釈している。


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