「ワタシ」的日常

一人称の主語「私」によって語りだされる日記。
ハヤナギの公的and/or私的生活の中の出来事とそれについての感想と考察から成る。
単なる愚痴のたれ流しという説もある。(目標:毎日更新)

2014年12月31日(水) 私を解放してくれた至言(1)
2014年12月30日(火) 正義の相対性
2014年12月26日(金) ネット依存症
2014年1月13日(月) ヘーゲルギリシアを論ず
2014年1月11日(土) 古書業界の風景
2013年10月14日(月) いつの間にかfacebookからの避難版に
2013年10月7日(月) 棲み分け

私を解放してくれた至言(1)
たまには放言も悪くないだろう。

3回ほど、私を解放してくれた至言を引用したい。

今世紀初頭、私のもやもやをきれいに吹き払ってくれた内田樹さんの一文。
http://www.tatsuru.com/columns/uhohoi1.html

その後、(内田樹『ためらいの倫理学』、冬弓舎、2001年、173ff.)に収録。2003年に角川文庫版。

『記憶/物語』(岡真理、岩波書店、2000年)
 
ポストモダンの思想家たち固有の「明晰な息苦しさ」というものがある。
クリアカットな言葉で、明晰な理説を、ポリティカリーにコレクトな仕方できちんと叙述しているのだが、その「コレクト」な文体はいつも私を息苦しくさせる。
岡真理のこの本にもそれを感じた。
この「息苦しさ」はどこから由来するのか、それについて考えてみたい。
岡がこの短い論考で扱っているのは、ほとんど古典的な哲学的=文学的主題である。
〈出来事〉は言語化されたときに、その本質的な〈他者性〉を失って、〈既知〉の、無害で、なじみ深く、馴致された〈経験〉に縮減される。しかし、私 たちは言語によってしか〈出来事〉を伝えることができない。では、どのようにして〈出来事〉の〈他者性〉を毀損することなしに、それを言説のうちにもたら しきたすことができるのか。
この問いは、哲学的な問いとしては、エマニュエル・レヴィナスによって、文学的な問いとしてはモーリス・ブランショによって、ほとんどいま私が書い たとおりの言葉遣いで1950年代に定式化された。それ以後の哲学と文学についての理論的考究はほとんどこの問いをめぐってきたといって過言ではない。
それから50年。私は岡がブランショとほとんど同じ問いを繰り返しているのを聞いて、短いためいきをついた。
相変わらず、私たちはここにいるのか。はじめに問いが発されたところから一歩も進めずに。
いや、前にすすむどころか、むしろ後退しているのではないのだろうか。
問いかけは同じだけれど、問い方には違いがあるからだ。
どう違うのか。
少し長いけれど引用してみよう。
 
〈出来事〉の記憶が−〈出来事〉の記憶に媒介されて〈出来事〉それ自身が−他者に分有されねばならないとしたら、それは何をしても、語られねばなら ない。〈出来事〉の外部に生きる他者たちへ至る道筋、回路を私たちはつくり出さなくてはならない。それは、今ある世界とは別の世界を私たちが創り、生きる ためだ。
だが、ここまでわたしが論じてきたのは、〈出来事〉の表象不可能性という問題、すなわち〈出来事〉は言語化できないということであったはずだ。〈出 来事〉が言葉で再現されるなら、必ずや、再現された「現実」の外部にこぼれ落ちる〈出来事〉の余剰があること、〈出来事〉とはつねにそのような、ある過剰 さをはらみもっており、その過剰さこそが〈出来事〉を〈出来事〉たらしめている、ということではなかっただろうか。そして〈出来事〉の暴力を現在形で生き る者たちは、そうであるがゆえに、それについて語る言葉を持ち得なかったのではなかっただろうか。
しかし、それでもなお−あるいはそうであるからこそ−語り得ない〈出来事〉は、語られねばならない。〈出来事〉の記憶が他者と分有されるために。そ して、そのためには、〈出来事〉の記憶は、他者によって語られねばならない。自らは語り得ない、その者たちに代わって。(・・・)他者が−〈出来事〉の外 部にあった第三者が−証言しなくてはならないのではないか。だか、それは語り得ない者たちに代わって、その〈出来事〉をいかようにも表象してよい、という ことでは断じて、ない。言葉では語り得ないはずのその〈出来事〉について語ろうとする私たちが「語り得る者」として振る舞うとしたら、その瞬間に私たちは 〈出来事〉を裏切ることになるだろう。表象不可能な〈出来事〉を表象すること、語り得ない〈出来事〉について、語ること、それは何よりもまず、〈出来事〉 のその語り得なさこそを証すものでなくてはならないのではないか。
では、そのような語りとは、いかにしたら可能だろうか。(pp.75-77)
 
岡がここで何が言いたいのかということはとりあえず措いて、読んだ印象だけを感じ取ってほしい。
ある種の「息苦しさ」を感じなかっただろうか。
私は感じた。
感じて当然だと思う。
ここに引用したのはこの本のいわば問題意識が集約的に語られて部分なのだが、その文章がほとんど全編「当為の文法」に律されているからである。
このわずか半頁、センテンスの数にして14の文章の末尾には「・・・しなければならない」が三回、「・・・だったはずだ」が二回、「・・・のために」が二回用いられている。つまりこの文章の半分は英語で言えば「must」の構文で占められているのである。
ほかに、「・・・ではなかっただろうか」と「・・・なのではないか」という修辞的な否定疑問(これはほんらいは論戦で相手を追いつめるときに頻用される「攻め」の構文である)がそれぞれ二回。
動詞でいちばん繰り返し使われているのは「できる/できない」「し得る/し得ない」という「can」 に当たる言葉で、これが九回。最後の文の「可能だろうか」も含めると十回。
岡は文学の専門家なのだから、イデオロギーが「言語運用の表層」に露出するということについては熟知してるはずだ。
ではその岡に訊ねたいのだが、「must」と「can」だけで編み上げられたディスクール、つまり「当為」と「能力」にのみ焦点化したディスクールはふつうどういう「政治的な文脈」で用いられるのだろうか。
それは「学校教育」の場で教師が生徒を訓育するときに用いる discipline の語法だ。軍隊の語法、政治党派の語法だと言ってもいい。
そして、言うまでもなく「学校」と「軍隊」と「政治党派」とは、「他者」の声がもっとも聴き取りにくい場、〈出来事〉がもっとも暴力的に隠蔽される場、まさに私たちがそこから逃れ出ようとしている当の場なのである。
結論部分で岡はジャン・ジュネを引いて、「他者の呼びかけの声にその無能さと受動性において応答する」ことによって「〈出来事〉の記憶を分有」しえるのではないかという希望を語っている。
私はこの知見には原則的に同意する。
しかし、もし岡がほんとうに最終的に私たちが使える道具は「呼びかけ」と「応答」という言語的なコミュニケーションであり、「言葉の力」に、「物語 る力」に最後の賭け金を置いてもいいと信じているのだとしたら、岡自身、自分がどういう言葉遣いによってそのような思想を語っているかについてもう少し敏 感にならなくてはならないと私は思う。
エマニュエル・レヴィナスの『全体性と無限』は、そこでもちいられている当の語法が、そこで論じようとしている当の主題を裏切り続けるという非常にストレスフルなテクストとして知られている。
いかなる言語によっても表象しえないはずの「他者」と「出来事」を語ろうとする企ては、それが成功すれば、「他者」はもう「他者」ではなくなり、「出来事」は「出来事」ではなくなるという背理を刻印されている。
「他者性」ってのはさ、これこれこういうものなのさ、とのんきに語る人々も、そのみぶりそのものが他者性を根絶するものだということを「理屈」としてはすぐにわかるだろう。
では、どうやって語るのか。
これは岡の問いと同じ問いだ。
こたえはもうずっと以前に、レヴィナスによって出されている。
それは「あなた」に届くように語る、ということだ。
それは「当為」と「能力」の語法とは想像しうるかぎり、もっとも遠くにあるような語法である。
ポストモダンの「コレクト」な思想家たちに感じる「息苦しさ」は彼らの思考が「当為」と「能力」の文法に律されており、「あなたに届く言葉」とはどういう言葉なのか、という思想的難題を真剣には考えてきていないということに由来すると私は思う。
ポストモダニズムはほとんど「語り口」のことだけを中心的な論件にしてきたはずなのに、なぜ自分たちの「語り口」の問題だけは構造的に見落とし続けるのだろう。
もちろん私が今言った「あなたに届くように語る」というのも一種の修辞、ひとつの物語にすぎない。けれども私はそれがフィクションだということを知っている。
私たちは嘘をつくことによってしか漸近線的に「真実」に近付くことができない。だから、私はこまめに嘘をつき続ける。だって、嘘をつかないと語れないことが、嘘をつかないと届かない言葉がやまのようにあるからだ。
私には自分が「嘘つき野郎」だという「病識」がある。
岡にはその「病識」があるだろうか。あるといいのだが。
2014年12月31日(水) No.87

まるは  2014/12/30/23:16:04   No.88
内田さんの『ため倫』からさらに引用しておこう。ページのメモがどこかに行ってしまい、現物が今、手許にないので、そこら辺はお許しを。

高橋[哲也]の主張は依然として「正しい」。しかしやはり「正しすぎる」ように思われる。(中略)
 原理的な正しさを求める志向は、いずれおのれが存在すること自体が分泌する「悪」に遭遇するほかない。そのときには「私が存在することが悪だというなら、私は滅びよう」という「結論」を高橋は粛然と受け容れる覚悟なのだと思う。
 私の身体に「鳥肌」が立ったのは、おそらくそのような「自裁の結論」に対しての生物的な怯えゆえである。(中略)
 加藤[典洋]はこの論争を通じて、「正義」は原理の問題でなく、現場の問題であるという考え方をあきらかにしていった。ことばを換えて言えば、この世界にいささかでも「善きもの」を積み増しする可能性があるとしたら、それは自分自身のうちの無垢と純良に信頼を寄せることによってではなく、自分自身のうちの狡知と邪悪に対する畏怖の念を維持することによってである。
 「悪から善をつくるべきであり、それ以外に方法はない」ということばに加藤がたくしていたのはそういうことではないかと私は解釈している。


正義の相対性
仲間と一緒に何かをなし遂げることと徒党を組むことの違い。

正義は常に相対的なもの、状況依存的なものであることの自覚。

換言すれば病識があるかどうかの違い。

とはつまり「洞窟のイドラ」の洞窟を知覚しているのかどうかの違い。

結局のところ主張の正しさよりも、主張のスタイルにこそ、主体=主語のイデオロギーは顕在化するのである。
2014年12月30日(火) No.86


ネット依存症
酔っぱらって帰宅すると、ついつい楽天やアマゾンでポチッとしてしまう。自分のこづかいを蕩尽するぶんにはかまわないのだが、送り先を間違えて勤務先の総務係にワインが12本もとどくことに・・・申し訳ありませんでした。
2014年12月26日(金) No.85


ヘーゲルギリシアを論ず
facebookの方に、思いつきをメモしてしました。

https://www.facebook.com/kazunori.hayanagi
2014年1月13日(月) No.84


古書業界の風景
いわゆる修正主義の論客だった坂本多加雄さんの『象徴天皇制度と日本の来歴』(1995)を読んでみようかと思い立ったのだが、なかなかにハードルが高い。

20年近く前の本なので、既に絶版なのは予想していたが、「日本の古本屋」ではみごとにゼロ冊、他の古本サイトでもダメ、ジュンク堂でも「現在ご注文いただけません」とある。

横断検索をかけたらアマゾンには14冊も出品があることがわかった。この落差はいったい何だろう。

しかも、一番安いコンディションが「可」のものでも4531円だ。

ちなみにヤフオクだとさらに高く、即決価格が6000円である。
もともと定価1529円の本である。

どうしてこういう値段になるのか。

「美しい国へ」日本が変容していきつつある現在、戦後支配的だった歴史叙述とは別様の叙述を目指した坂本の著作に対する需要が高まっていて、そのことに背取り屋の人たちが敏感に反応しているのだろうか?

ここのところ、アマゾンではバカ高い値段で出品されているのに「日本の古本屋」には出ていない、という事例に出くわすことが多くなった。しかし今回ほど極端なのは初めてだった。

日本の古本屋」に集っているような良心的な古書店の経営者たちは、こういった状況をどうやって突破していくのだろう。彼らがバーコードリーダーを懐に忍ばせて、開店前のBookoffに並んでいる姿を思い浮かべてみたが、それは荒涼とした風景の中にあった。
2014年1月11日(土) No.83


いつの間にかfacebookからの避難版に
真実の一面ではあるのだが・・・

若者の「生きづらさ」をテーマに文筆活動や街頭活動を繰り広げる作家雨宮処凛さん(38)の講演会が8日、津市の県総合文化センターであった。[……]

「若者は競争主義の学校や就職活動を通し、自己肯定感を奪われている。生きづらさは個人だけの問題ではなく、社会の問題と気づけば少し楽になる」と訴えた。 [……]
「人に迷惑をかけることが当たり前だと開き直ることも大事。失敗しても逃げ場があることを示してあげるのも大人の仕事」などとアドバイスした。

以上http://www.asahi.com/area/mie/articles/NGY201306080016.htmlからの引用。

「若者はゆとり教育の学校と少子化を通し、自己肯定感を持ちすぎている。生きづらさは社会だけの問題ではなく、個人の問題と気づけば少し解決の道筋が見えてくる」と訴えた。

「人に迷惑をかけないのはあたりまえだと反省することが大事。失敗したらもう後がないという覚悟で何かに取り組むのも大人の仕事」などとアドバイスした。

このような主張にもまたリアリティがある。「立場をはっきりして欲しい。今時の若者に対してどちらかのアドバイスをしろ、と二項対立的に迫られたら後者かなあ・・・しかし、実際にはほとんどの場合、二つの側面が絡み合っている。(書いているうちに思ったが問題は「逃げ場」をどのような場として捉えるかではなかろうか)

アポリアとはそういうものだ。誰にでも当てはまる処方箋などないと知ることが、はじめの一歩。言説にクライアントが付いて、それで生活しはじめたらそうはいかないんだろうけれども。
2013年10月14日(月) No.80


棲み分け
日常の記録をfacebookに書くようになってから、こちらがお留守になってしまった。

しかし、facebookはあれこれ制約が多く、書きたいことを書きたいだけ書くという目的には向いていない。リア充的空気も好きではない。毒も吐かなきゃ!(Yくんとはそのための場所を設けた)

このサイト自体も、長年きちんと更新しておらず、機能しているのは、この日記とリンク集とネット講義室だけである。このサイトを全面的にリニューアルするとすれば、来年の4月に新しい学部ができたときだろうから、それまではこの体制でいくことになる。

なんにせよ、研究日誌とこの日記とfacebookの3つを維持するのは私の余力では不可能なので、研究と毒吐きはこのサイト、日常生活はfacebookという棲み分けを試みることにする。

研究日誌との統合に伴い毒吐きについては抽象度をさらに上げることにしたい。自分以外には何を書いているのか分からなくなるかもしれないけれども。



2013年10月7日(月) No.79


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