大学院生に贈る十箇条(4)

大学院生に贈る十箇条

4. 卒論を改作して雑誌論文を書こう

 卒論と言えども論文であることに違いはない。いやしくも論文を自称している以上、何らかの点で学術的な価値を持っているはずである。無論いかなる卒論であろうとも学術的価値はある。だが多くの場合それは、内田樹さんの言う「人類学的価値」である。つまりある時代における日本の大学生の関心のあり方や知的能力を調査する際の資料としての価値である。いかなるテクストも人文社会科学の研究対象になりうるのだから、学術的価値を持たない卒論などありえないのだ。
 しかしここで私が取り上げたいのはこうした意味での価値ではない。その論文自体の中に新しい学問的知見が含まれているかどうかということがここでは問題なのだ。別の言い方をすれば、論文のオリジナリティである。

 大学院に進学するような学生の卒論であれば、その中にいくらかは学問的なオリジナリティが含まれている。多くの場合、それはささやかなものかもしれない。だが、ささやかと言えどもオリジナルなものであるのなら、それをきちんとした形で公表すべきである。
 今回書きたいことはこれに尽きる。

 卒業論文はもちろん個人の作品であるし、そこに著作権も認められるだろう。しかしその一方で公共性をも持っている。なぜなら卒論の執筆を可能にしたのは大学という制度であり、その制度には多くの税金が投入されているからである。
 だから、そこに人類が作り上げてきた知のネットワークにほんの僅かでも新たな書き込みができるのであれば、きちんとやっておくのが筋なのである。
 と言うより、何の学問的価値もない卒論を提出した学生に学士号を与える方がおかしいのである。

 筋論はこれくらいにして、大学院生として生きていくという問題に限定しても、この問題は重要である。

 論文にとって大切なのはその質である。それは自明のことだろう。だが、大学院生として生きていく上で大切なのは、往々にして論文の数の方なのである。
 非常勤講師の採用、留学生試験、専任教員の採用、教員としての昇進。こういった様々の場面で、「この人は何本の論文を公表しているのか?」ということが選考の際の最初のハードルとなる。「レフェリー付き云々」といった質の問題は、その次の段階でこそ意味を持っている。
 ある高等教育機関に急に非常勤講師の欠員が出たとしよう。講義担当予定者が病気で出講できなくなり、年度末ギリギリになって、非常勤の欠員ができたり、ある科目の履修登録者が予想以上に多く、急遽一クラス増やす必要が出る、といったケースは決して珍しくないのである。採用する側は、研究歴、学歴、年齢といったいくつかのメルクマールを設定し、これらの条件に合致する人を探すために、あちこちに声をかける。
 こうした場合、本務校を持っている教員や複数校に非常勤に行っている研究者は、既に予定が一杯で引き受けられないことがある。すると話はめぐりめぐってあなたのような大学院生に舞い込んでくるのである
 しかし、である。大学によってハードルの高さは違うが、最低でも公刊された論文が一本はないと非常勤として採用しないのが普通である。
 ところがその一方で博士課程の一、二年の院生の場合、公刊論文がゼロであったり、せいぜいのところ投稿中であることが多い。せっかく仕事の話が来たのに、みすみす取り逃がすより他なくなるのだ。
 「論文が後一本ありさえすれば・・・」という場面は研究者のライフコースにおいて何度も出くわすものなのである。

 だからこそ、なるべく早い時期に、つまり、修士課程の間に雑誌論文を書いておくことが大切となるのだ。
 とは言っても、駆け出し研究者の院生にとって、論文のネタなどそう簡単に仕込めるものではない。ネタがあるとすれば卒論以外にはないではないか!

 雑誌に投稿するとなると、その雑誌の投稿規定に合わせなくてはならない。字数、書式、注の付け方等々、それぞれの学術雑誌に固有の投稿規定というものがあって、いくら内容がいい論文であっても、既定に合致していないものは受け付けてもらえない。
 卒論の場合だと、まず第一に制限字数に引っかかる。雑誌論文の場合、一本につき12000-20000字くらいの制限が付いているのが普通である。これに合わせようとすれば、卒論をシェイプアップするより他ない。(これは卒論の最も重要な箇所を際立たせていく作業でもある。)

 だが、投稿規定にはもう一つ重要なポイントがある。それは、執筆資格である。
 学会誌や研究会であれば、その会員であることが条件となるし、大学の紀要であればその大学の成員であることが必要である。
 ところが修士課程の院生の場合、まだ学会に入っていないことが多い上に、学会誌はレフェリーが厳しいので、投稿しても落とされる場合がある。一度落とされると、再投稿までに時間がかかってしまうので手っ取り早く研究業績を作るには向いていない。(その上気の弱い人はこの時点で自信喪失してしまう。)となると紀要類しかないわけだが、紀要は院生の単独執筆を認めていないケースが多数を占める。院生を中心にした論集を出している大学院もあるが、これまた博士課程の院生しか書かない(慣例になっている)ようになっていることがある。
 このように修士課程の院生が研究成果を発表できるメディアは意外に少ないのである。幸いに適当なメディアを見つけた人は、それでいい。だがそうでない場合は、どうすればいいのか。

 こういう時はためらわずに学部時代の指導教官and/or現在の指導教官に相談しよう。
 大学の紀要の場合、院生の単独執筆は認めていなくても、教官との連名、つまり共同研究者としてであれば執筆を許可されるのが普通なのである。指導教官とならあなたも紀要に執筆できるはずなのだ。

 自分の卒論なのに指導教官と連名なんていやだ!、と思う人もいるだろう。そういう人は、博士課程に入ってから卒論を改訂してどこかの雑誌に投稿すればいい。ただし、私の経験から言うと、間に二年も置いてしまうと、卒論原稿はもうそのままでは論文として使えないものになってしまう傾向が強い。一つには情報として古くなるということがあるが、より根本的なのは、書き手の側が成長ないし変容してしまい、昔の仕事を掘り起こす気持ちがなくなってしまうという問題である。卒論原稿などと言うのはその大半の箇所は専門家の目からすれば未熟なものであって、その中に、砂に混じった砂金のように、ほんのわずかだけ(うまく精錬すれば)キラリと光るものが含まれているのである。過去を振り向いて砂金掘りや精錬の作業をするよりも、新しい大鉱脈に取り組むことの方がはるかに楽しいしやりがいもある(ように見える)のである。だから、卒論に関していえば、連名でもいいから、執筆時の勢いが残っているうちに雑誌論文へと改稿する方が結果として日の目を見る確率が高いのだ。

 指導教官の方で卒論の成果を公表することを提案してくれることもあるが、そうした幸運な例は稀である。やはり自分で構想を立てて、教官に相談に行くという形にするのがいいだろう。教官の方で意外に好適なメディアを知っている場合もある。こういうときに妙に遠慮するのはあなたのためにならない。多少あつかましいのが吉である。

 ここまでくれば後は、あなたと教官との間で、原稿が行き来しながら、少しずついいものに仕上がっていくプロセスを楽しむだけである。無論、苦しいこともあるだろうが、校正刷りを手にした頃には、きっと、やってよかったと思えるだろう。

 さあ、今すぐ卒論を読み返してみよう!


十箇条目次

十箇条その1

十箇条その2

十箇条その3

十箇条その5

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